溝口秀勝

溝口秀勝は越後国新発田藩の初代藩主です。幼少時より丹羽長秀に仕え幼名を竹丸といいます。
織田信長からその才能を見出され、直下の家臣として若狭国大飯郡高浜城(現福井県大飯郡高浜町)五千石を与えられました。
本能寺の変で信長が横死した後は、羽柴秀吉に仕えます。賤ヶ岳の戦い後、越前国北ノ庄城に入封した丹羽長秀の与力として、加賀国江沼郡大聖寺城(現石川県加賀市大聖寺町)四万四千石を与えられました。
丹羽長秀が没し、長男・丹羽長重が家督を継いで北ノ庄城主となりますが、若狭国に転封となります。そして長重の代わりに北ノ庄城に入封した堀秀政の与力として引き続き配属されました。
1586年に従五位下・伯耆守に叙任され、豊臣秀吉から偏諱を受けて秀勝と改名し、豊臣姓を授与されます。
朝鮮出兵の際は、肥前国名護屋城を守備しました。
1598年、上杉景勝が会津へ移封となり、越後には堀秀政の子秀治が春日山城に入ると、その与力として秀勝が新発田に入封します。
新発田に六万石を与えられた秀勝は、当初五十公野(現在新発田市)に仮の館を造り、そこで執政を行いました。また、上杉景勝によって滅ぼされた新発田氏の居城跡に新しく城を築き、新発田の城下を整備。城は三代目の溝口宣直のときに完成します。
1600年、関ヶ原の戦いでは東軍に属しました。
越後において上杉景勝が煽動する一揆の鎮圧に努めます。関ヶ原の戦いの後、徳川家康から所領を安堵され、新発田藩初代藩主となりました。
秀勝は新発田において六十三歳で死去。自らが開基した新発田城下の淨見寺に葬られました。
- 仙石秀久
- 細川忠興 辞世の句です。
- 京極高次
- 毛利勝永
- 堀尾吉晴
- 浅野幸長
- 渡辺勘兵衛
- 脇坂安治
- 生駒親正
- 大野治長
- 加藤嘉明
- 前田玄以
- 溝口秀勝
- 浅野長政
- 竹中重治 秀吉への最期の言葉です。
- 堀秀政
- 豊臣秀次 辞世の句です。
- 豊臣秀頼
- 長束正家
- 小西行長
- 蜂須賀小六
- 島左近
- 大谷吉継 辞世の句です。
- 石田三成 辞世の句です。
- 羽柴秀長
- 福島 正則
- 加藤清正
- 豊臣秀吉 辞世の句です。











