1548年安井重継の子として生まれました。叔父・浅野長勝の娘を娶り、その養子となります。はじめは織田信長に仕え、羽柴秀吉の妻と浅野長政の妻が腹違いの姉妹であるという相婿の縁により、羽柴秀吉の配下となります。こうした血縁に薄い羽柴秀吉に重用され、主に帷幕の将となって軍監役を務めました。
長政は、秀吉が近江国長浜城主となったとき、秀吉不在時の留守居役を任されるほどの信任を得ています。さらに中国攻めの際には秀吉と行動を共にし、前線部隊長として勇敢に戦いました。
本能寺の変以降、山城国の検地を担当して京都奉行を勤めます。姫路城の普請を担当しました。小牧・長久手の戦いの後には戦後処理として徳川家康との和解に奔走するなど、外交面でも優れた手腕をふるいました。
1584年には近江国甲賀郡などで二万石、1587年には九州征伐の軍功により若狭国小浜城主、八万石を与えられます。
1590年の小田原攻めでは武蔵国岩付城攻めのなどの指揮を執り、奥州攻めに際しては、豊臣秀次の軍奉行として従軍しました。
1593年には嫡子の浅野幸長領と併せて甲斐二十二万石を領するに至ります。
伊達政宗・南部信直・宇都宮国綱・那須資晴・成田氏長らを与力として付され、豊臣政権の奥羽・北関東支配の一翼を任されるまでに重用されました。その後、家督を浅野幸長に譲ります。この頃、石田三成ら他の五奉行は徳川家康の専横ぶりを怒り、徳川家康打倒を画策しましたが、長政は家康と通じており家康を支持しています。このあとも長政は徳川家と親交な関係を保ち、1600年の関ヶ原の戦いでは東軍として戦いました。
その後は江戸に住み、1606年に隠居料として常陸国真壁・筑波郡のうち五万石、1609年には近江国神埼郡で五千石を与えられました。
1611年、下野国塩原で湯治中に六十四歳で死去しました。浅野長政は囲碁に長じ、しばしば家康と盤上の争いを楽しんでいたことが知られ、長政の死後は家康も囲碁を断ったといいます。