堀秀政

堀秀政は、1553年に生まれました。幼名を菊千代といいます。位は左衛門督、従五位下侍従を賜りました。
はじめは、美濃斎藤氏に仕え、1565年頃から織田信長に従いました。羽柴秀吉の説得により、秀政は、織田信長に伝えたと言われています。仕官当時は若年であり、最初は小姓として仕えました。武将としては、越前一行一揆や荒木村重討伐に戦功をあげ、領内では蔵入地の奉行をつとめ、織田信長の側近として頭角を現します。その後の合戦では、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦い、有岡城攻め、紀州攻め、九州攻めに参加し、さらなる戦功をあげ1581年に近江長浜城主となりました。1582年には、武田攻め、ついで中国に遠征した羽柴秀吉に随行します。
本能寺の変の発生時、秀吉は高松城に水攻めを行っており、秀政は高松城へ信長の特使として向かっていました。本能寺の変を知らせる使者と時をほぼ同じくして秀吉の元へたどり着きました。この直後、秀吉は中国大返しを行い、秀政も秀吉に従い、山崎へと向かいました。
本能寺の変の後、明智光秀側につくか、明智光秀討伐後は秀吉側につくか柴田勝家側につくか。秀政は選択を迫られる状況に直面しましたが、秀政は迷う間も選択する余地もありませんでした。
秀吉は秀政を真っ先に見込んで抱き込みます。本能寺の変の後の中国大返し際に、秀吉に長く接し、秀政自身が秀吉と組みすることを決断しました。そして秀吉とともに山崎の合戦で明智光秀を討ち果たしました。
1585年、秀政は北国支配の要として、越前北庄城主となります。
1590年、小田原攻めの陣中で秀政が三十八歳という若さで急死しました。もしその若さで病死せず、豊臣政権の支柱として、百万石級の大大名にまで登りつめ、五大老にも列したといわれています。それは小牧長久手の合戦ではただ一人、徳川勢を破ったこと、信長に側近く仕えて重用されたことからもその大物ぶりが明らかです。
また次のような戦場でのエピソ?ドが残っています。秀政は部下に、風雨の夜は厳重に警戒するようと言いました。そして、こう続けた。「盗賊が武具や兵糧を奪いに来るかもしれない。だが、盗賊に奪われるのは残念だから、今晩、わしが泥棒に入るからそう思え」といいました。
部下は殿様に盗まれては大失態です。堀家の家中は厳戒体制を敷き、盗難には遭わなかったが、他の大名の陣では盗難の被害に遭ったのです。実は秀政の座右の銘は「油断」で、秀政はこの二字を額に入れ、日々、戒めていました。この用心深さをもっての、戦上手、治世上手でした。

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