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豊臣秀頼

1593年、豊臣秀吉と淀殿の間に生まれました。秀頼の前に淀殿は鶴丸を生んでいましたが、三歳で亡くなっていたため秀吉は秀頼の誕生を大喜びしています。秀吉にとっては三男でした。
秀頼が生まれる前は秀吉の甥、秀次が後継者として関白に就任していました。秀吉は秀頼に跡を継がせたいために、秀次に謀反の罪をきせて自害させます。
豊臣秀頼が六歳の時に、豊臣秀吉は死去しました。徳川家と対をなす前田家が前田利家没後に早々と大坂から退散し、家康は政権解体を進めます。
その後、豊臣家は摂津・河内・和泉の三カ国六十五万七千四百石に転落したといわれています。そして政治の実権は徳川氏の手に移っていきます。
1603年に、徳川家康の孫、千姫と婚約して、その後結婚しました。豊臣秀頼と千姫の夫婦は大変良かったと言われますが二人の間に子は授からず、側室との間に、一男(国松)一女(天秀尼)が生まれました。豊臣秀頼は、関ヶ原以降も順調に官位が上がり、十三歳にして右大臣に就任し、1608年左大臣になりました。
1611年、秀頼と家康との会見が京都の二条城で行われます。
家康が十九歳になった秀頼に会ってみると、賢明な人物であり、人望もあった秀頼の祖父にあたる浅井長政に面影が似ていました。
そして立派な体格で実に威風堂々として、王者の貫禄を備え、凛とした頭の良い印象だったようです。家康は秀頼が再び天下を治める人物に成長することを危惧して豊臣家打倒を決意したともいわれています。
その後も豊臣家は、前田家に援助を求めるなど政権の回復を目指しました。やがて1614年家康との対立はピークに達し、戦いに突入します。
大坂の陣では、秀頼は、豊臣軍の総大将となり、冬・夏の両陣で本丸の守備を指揮しました。大坂冬の陣では徹底抗戦を主張し、夏の陣の開戦を自ら主導します。最終決戦となった天王寺・岡山の戦いの際には、天王寺への出馬を図りましたが、土壇場での和議に期待する者の引き止めを受け出馬は行いませんでした。結局、味方は大敗します。秀頼は助命も許されず、淀殿らとともに山里郭にて二十三歳で自刃します。豊臣家はここに滅亡しました。

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