水口盛里の長男として近江国栗太郡長束村に生まれました。長束正家の父盛里までを水口氏を名乗り、長束正家以降は長束氏を名乗ったと記録されています。
初めは織田信長の重臣であった丹羽長秀に仕えていました。やがて、丹羽長秀が亡くなると、その卓越した算盤勘定の才を見込まれて豊臣秀吉に召し抱えられます。 その後は、石田三成や大谷吉継らと共に重用されました。 のちに豊臣政権の五奉行の一人となります。 また、石田三成・増田長盛などとともに行政文章の作成なども務めました。また近江・越前では太閤検地の奉行を務め、秀吉の天下統一に伴う九州攻めでは蔵米の徴収や配分を担当しました。
小田原攻めの際も豊臣方の出城となった石垣山一夜城の普請や兵站奉行を務めました。戦後には家臣であった弟の長束正隆が秀吉の直参に取り立てられました。文禄・慶長の役では肥前名護屋に在陣し兵糧奉行も務めます。
1590年には人質として上洛した徳川秀忠の出迎えの任に当たるなど、徳川家との関係も深かったようです。農村支配にも関与し、1594年には豊臣秀次とも相談の上、中川秀成の豊後入封に際し戦乱によって荒廃した農村の再建、逃亡した農民の還住策を指示し、また、同時期に伏見城の造営にも参画するなど執政にも敏腕をふるいました。
1595年に近江水口城五万石を拝領し、五奉行の末席に名を連ねました。1597年には十二万石に加増され、官位も従四位下侍従に昇任しました。
豊臣秀吉の死去後は石田三成方につき、徳川家康打倒の謀議に参加しましたが、徳川家康の伏見城入城を阻止できず、前田玄以とともに家康に会津征伐の中止を嘆願したが聞き入れられませんでした。
1600年に石田三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵しました。関ヶ原の戦いでは西軍につき、本戦では毛利秀元・吉川広家とともに南宮山に布陣し合戦前には浅野隊と南宮神社付近で交戦、池田輝政隊と銃撃戦を展開しましたが、 吉川広家の妨害により、毛利秀元や長宗我部盛親らと同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅したあと撤退しました。 捕えられた長束正家は弟長束直吉と共に家臣奥村左馬助の介錯で、享年三十九歳で切腹しました。