小西行長

堺の薬種商・小西立佐(隆佐)の二男として生まれました。その生い立ちから弁舌に巧みな外交官、経済感覚のある行政官として豊臣政権下で活躍します。はじめは備前国岡山の宇喜多直家に仕え、宇喜多氏が織田信長に降伏したあと、羽柴秀吉の部下となりました。1584年に小豆島・塩飽の二島を与えられて水軍の将として敏腕を奮い、東瀬戸内を支配します。またこの頃、キリスト教の洗礼を受けました。洗礼名はアグスチンといいます。
1585年に従五位下・摂津守に叙任され、豊臣の姓を許されました。1589年には肥後の南半国二十四万石の宇土城主となります。
1592年からの文禄の役には加藤清正と共に先陣として渡海します。加藤清正と戦功を争い釜山の攻略をすると次々と朝鮮軍を破って平壌を陥落させるなどの軍功を挙げました。小西行長は侵攻を続けながらも和平の道を模索し、明軍の将軍・沈惟敬と会談を行い、家臣の内藤如安を講和交渉のための使者として北京に派遣するなど、和平派の重鎮として奔走しました。
しかしこの講和交渉はうまくまとまらず、1597年1月より慶長の役が始まりました。再び軍勢を率いて朝鮮に渡海しましたが、豊臣秀吉が没したことによって撤兵することとなり、1598年に帰国します。
1600年の関ヶ原の戦いにおいては親しかった石田三成と結んで西軍に属し、徳川家康率いる東軍勢力と戦います。関ヶ原の戦いでは東軍に敗れると、近江国伊吹山中で捕えられ、京都六条河原において四十三歳で斬首されました。
小西行長は熱心なキリシタンとして知られていますが、はじめは、信仰はそれほど深くなかったようです。真摯なキリシタン武将として知られる高山重友と親しくなったあとはそれまでの傲慢さがなくなり、周囲の人が驚くほど柔和で謙遜深い性質になったといわれています。信仰も深まり、大坂に癩病の病院を建て、孤児救済事業に尽力するなど慈善事業にも貢献しました。
1587年バテレン追放令が発令されたときも、バテレン(宣教師)や重友のために隠れ家を用意。その保護に努めました。また、関ヶ原の戦い後の処罰の際に、自害はキリシタンの教義に反する、として切腹を断って斬首されました。ローマでは小西行長の刑死を聞き、全市をあげて哀悼の祈りを捧げたといわれています。

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