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    Categories: 武将紹介 織田家

平手政秀

信長の守役としてその奇行に苦心し、自害した織田家の老臣が平手政秀です。
若年から織田家生粋の忠臣として活躍し、当時の武士としては珍しく茶道や和歌に通じた風流人であった事から朝廷との折衝を務めるなど外交に重用され、信長の父・織田信秀の信頼も厚かったと言われています。
信長が誕生すると信秀によって守役(後見役、養育責任者)に指名され、同時に次席の家老としても抜擢されています。織田家の未来を託されるという重役に就き、信長の初陣を成功に導きました。しかし当の信長はその後も奇行を繰り返し、周囲から“うつけ殿”と陰口され政秀は懊悩します。
この頃、織田家は隣国・美濃の斎藤道三との抗争に明け暮れており、東の強国である今川家とも緊張状態にありました。このことから二正面の対立関係は危険と見た政秀は斎藤道三の娘である濃姫と信長の縁組による関係改善を信秀に提案しました。信秀もこれを了承し、美濃との和睦を成立させました。政秀は結婚すれば信長の奇行も止むのでは、との期待がありましたが狙いは外れ結婚後も信長の奇行は続きました。
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信秀が死去して信長は織田家の家督を相続します。しかしながら相変わらず信長は大名家の当主らしからぬ行動ばかりをとり、織田家の同僚の家臣たちは後見役の政秀を責め、政秀は家中での立場を無くしてしまいます。
更に信長は政秀の息子である五郎右衛門の愛馬を強烈に所望し、それを五郎右衛門が断ったことから信長は逆恨みし、政秀との対面さえ拒絶するようになります。政秀は織田家の将来を悲観すると同時に絶望して自刃しました。享年六十二歳でした。
この事件に信長は衝撃を受け京から高僧・沢彦宗恩を招きます。そして政秀寺を建立し政秀の菩提を弔いました。政秀の死後も信長の行動は改まることはありませんでしたが、信長からすれば自身の行動に特別の反社会的な意図は無く、それを理解できる人物が存在していなかったため政秀の悲劇に繋がってしまったといえるでしょう。
信長が政秀を評価していたピソードがあります。
近畿を平定し信長の勢力が日に日に盛んになっていった頃。 近臣たちが「このように強大になるとも知らずに平手政秀が自害したのは短慮でした」といったのに対して、信長がいいました。「わしがこのように弓矢を執れるのは、みな政秀が諫死したことのおかげである。古今に比類ない政秀を短慮だというおまえたちの気持ちがこの上なく口惜しい」

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