出身は近江国とされ生年は不祥です。
官僚としての能力が非常に高かった事から早くから重臣として厚い信頼を受けて重用されました。そしてあらゆる方面での職務を遂行しています。
織田信勝が兄・信長に反逆した際に貞勝は信雄側近の柴田勝家を説得して離反させる。
美濃攻略の際にも西美濃三人衆の懐柔を成功に導く。
信長上洛にあたっては二条城の造営や京都御所の修理、朝廷との交渉を担う。
信長が足利義昭を京から追放したあと、京都所司代(京都の中央政務局長)を命じられて京の治安維持・朝廷との交渉・信長の行う興業を統括するなど、その能力と権勢から宣教師ルイス・フロイスは貞勝を「京都の総督」と呼び「異教徒ながらその能力は尊敬に値する」と「日本史」に記しています。
天正3年(1575年)の徳政令発効時には公家の財産管理に関して起こる係争問題について担当しました。この頃、貞勝は朝廷との交渉の経緯から正六位下・長門守の官位を叙任されています。
天正5年(1578年)に御所の築地塀の修理にあたった際には工事に合わせて京の芸能人を招き歌舞を行わせたことから工事現場に京中の人々が集まりその賑わいの中で職人たちは自分の腕を競ったため塀の修理は信じられないほどのスピードで進行し、あっという間に工事は完了したといわれています。
天正8年(1580年)貞勝は信長から京での宿泊所として本能寺の大規模な改築を命じられ、自ら普請(設計から現場監督までを統括する責任者)にあたっています。
天正10年(1582年)6月京都の自宅にいた貞勝は明智光秀が京を急襲しているとの情報を受け、直ちに信長の嫡男・織田信忠が宿泊する妙覚寺に駆け付け、危険を知らせます。信忠と貞勝は二条御所への避難を決断し、御所に立て籠もりますが押し寄せる明智勢の前に貞勝は信忠と共に討ち死にしました。