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    Categories: 武将紹介 織田家

森長可

信長の小姓として有名な弟の森成利(蘭丸)に比べて一般には知名度が高いとは言えない武将が森長可です。
眉目秀麗で性格も穏やかな成利と比較すると長可は少々気性が荒く、武芸に秀でた筋骨逞しい戦国の漢(おとこ)の典型ともいえました。その一方で政治や商業にも明るい人物です。
織田家家臣の森可成の次男として尾張に生まれました。十一歳の時、父・可成と長男・可隆が相次いで戦死してしまったために長可は家督を継ぐことになりました。
若年でありながら有能であったようで十五歳で羽柴藤吉郎や丹羽長秀と同じく織田家の重臣として行動していました。
一向一揆との戦いで手柄を挙げたことを皮切りに、その後の信長の主要な合戦には必ず参加して武功を重ねていきました。長可は戦だけではなく自分の城下町の効率的な区割り(区画整理)をおこない、河港(内陸河川の港)を整備することで地元の商業を大いに発展させるなど政治や商業制度の整備も得意としていました。
天正10年(1582年)6月、信長の命令で信濃(現在の長野県)に侵攻していた長可は戦場で突然、明智光秀による本能寺の変と信長の死を知りました。急いで引き返して光秀を討とうとした長可でしたが、信濃侵攻に付き従った家臣たちに裏切られてしまい、周りは敵だらけとなります。その窮地を何とか切り抜けて自身の居城に帰ることに成功しました。
長可は信長亡き後の混乱に際して織田家家臣の内、当時最も勢いのあった羽柴秀吉に近付き支援を受ける事で自身の領土を巧みに拡張し、美濃から信濃までに勢力を拡げました。
天正12年(1584年)信長の次男・織田信雄が徳川家康と連合して織田家を乗っ取った羽柴秀吉に対して武力行動に出ます。事実上秀吉の家臣となっていた長可は秀吉と共に出陣し、家康との戦いに臨みました。小牧・長久手の戦いです。
八万とも十万とも言われる秀吉軍に家康軍は二万足らずでしたが“野戦の達人”である家康の前に秀吉は手も足も出ません。
そこで長可は同じく秀吉軍の池田恒興と相談し、家康の本拠である浜松城を直接攻撃することを秀吉に申し出、秀吉もこれを許可します。
3月17日深夜に長可と恒興は浜松に向けて行軍を開始しますがその直後、突然後方から家康の奇襲を受け大混乱に陥ってしまいます。長可が何とか態勢を立て直し、反撃に移ろうとした時、家康軍が一斉に発砲。
長可は額に銃弾を受けて戦死します。二十七歳でした。戦後、秀吉は自分に味方し戦死した長可に敬意を払い、長可の領地には手を付けることなく手厚く保護しその後も森家を存続させました。

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