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    Categories: 武将紹介 織田家

織田有楽斎

一般に織田有楽斎という名前で知られ、茶人としてその道に高名な人物が織田長益です。
織田信秀の十一男としてうまれた有楽斎の前半生は記録に乏しくはっきりとした履歴は不祥となっています。
天正2年(1574年)尾張国知多を拝領し、大草城主となった後、嫡兄・信長の下に従軍したと推定されています。
本能寺の変では二条御所に宿泊しており明智光秀の襲撃を受けています。辛くも脱出に成功しますが同伴していた織田信忠は戦死しました。
信長死後、長益は信長の次男・織田信雄に仕えます。信雄が秀吉と武力衝突した際(小牧・長久手の戦い)には徳川家康と共に参戦して、のちに信雄と秀吉の和睦を仲介しています。
天正16年(1588年)には事実上の秀吉の家臣となり御伽衆(顧問・相談役)に命じられています。
天正18年(1590年)剃髪した際に有楽斎を号しました。この頃から親戚関係にある淀殿の補佐を務めるようになります。
秀吉が死去すると、天下に不穏な空気が立ち込めます。豊臣家の内部対立に端を発した関ケ原の合戦が行われ、長益は家康率いる東軍として戦闘に参加しました。
この合戦で大きな武功を挙げた長益は家康から褒賞を受け、これをきっかけに豊臣家に残りながらも長益は徳川幕府とも懇意になって行きました。
しだいに徳川家と豊臣家間に対立構図が形成されていくなか、長益は大坂城内で徳川家との衝突を回避すべく強硬論を主張する淀殿を諭すようになります。
大坂の陣が迫る中、大坂城内では徳川との徹底抗戦の声が支配するようになり、穏健策を唱える長益は半ばスパイとして扱われ、その肩身の狭さから長益は豊臣家を見限り大坂城を退去しました。
それから間もなく豊臣家は大坂夏の陣で徳川幕府の前に敗れ滅亡しました。その後京都に移った長益は長年の趣味であった茶道に没頭し文化人として余生を送り、京都で七十六年の生涯を閉じました。

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