長年にわたり懸命に主家に仕え、その事業達成に多大な貢献を果たしながら主君の理念とのずれから突然リストラされるという憂き目にあった悲運の武将、それが佐久間信盛です。
正確な生年は不祥ですが尾張山崎に生まれ、若年時から織田信秀に仕えました。天文3年(1534年)の信長誕生時には平手政秀とともに重臣として信長養育の責任者に指名されていることから信秀からの信頼と期待がうかがい知れます。信秀死後に起こった織田家の家督騒動時にも奔走して信長の家督相続に貢献しました。その後も信盛は家臣団の筆頭として織田家を支え、信長の主だった合戦には文字通りすべて参加しています。
武将としてだけではなく内政や外交にも長けていた信盛は徳川家康の嫡男・信康と信長の長女・徳姫との婚儀を成功させ、永禄11年(1568年)の信長上洛の際には畿内一帯の行政を一任されるなど多方面に渡る有能さを発揮しています。しかし天正元年(1573年)の一乗谷城の合戦の頃から次第に天下事業に対する性急さを加速させていく信長の意向と信盛の心情にずれが生じるようになっていきます。
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天正4年(1576年)石山本願寺攻めを命じられた信盛は定石を踏む形で慎重な作戦行動に務めましたが、あくまで性急さを求める信長にとっては成功裏に事が進んでいても、その取り組み姿勢を容認することができなくなっていました。
天正8年(1580年)8月信盛に突然十九箇条にわたる折檻状が信長から送り付けられます。これは忠義と忠君に勤しんでいた信盛にとって信じがたいことでした。
書状の内容には「信盛は長年織田家に仕えていながら職務を果たそうとせずこのように無能な部下を持つことは主君として世間に面目が立たず不名誉なことである・・・」「功績を挙げられないとすれば主君に指示を仰ぐべきであるのにそうしないのは独善と怠慢であり主君としてこれを許すことは出来ない・・・」信長にとっての目的の達成までの進む方向に対する思考、家臣として果たすべき忠義に対する視点が信盛の想像とは全く違う次元にあることを示したこの書状は事実上の解雇通知でした。
この後信盛は各地を流浪し、天正10年(1582年)1月流れ着いた紀伊で失意の中に死去しました。重臣をいとも簡単に切り捨てる信長の方針は明智光秀に強い印象を与え、五カ月後に起こる本能寺の変の要因の一つになったとも言われています。