伊東一刀斎は、戦国時代から江戸時代に活躍した剣の使い手です。
一刀斎に関しては、生年月日などについて様々言われていますが、定かではありません。
生没年については、1550年から1628年(もしくは1632年没)や、1560年から1653年とも言われています。いずれにしても、長生きしたことがわかります。
伊豆の伊東出身であり、名前はこの伊東の地から取ったといいます。とは言え、伊東の地には、伊東一刀斎に関係する事柄が残っておらず、伝わっていません。
さらに、一刀斎は、伊豆大島の生まれで、彼が愛用していたという瓶割刀の伝説が残っています。
格子ひとつのみで泳ぎ三島に辿り着き、三島の地で彼は富田一放という人物と戦い勝利を収めたので、神主から由緒ある刀を授けられたといいます。その刀を手に、盗賊を成敗していて、残る一人が大きな瓶の陰に潜んだところを、その刀で瓶もろとも斬り伏せたのでした。
また、西の地方の出であり、一刀斎の門人である古藤田勘解由左衛門唯心(ことうだかげゆざえもんゆいしん)が起こした『唯心一刀流』に伝えられているところによると、近江は堅田の出身だともされています。
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他にも、北陸の金沢や敦賀の出身であるとしている記述もあります。敦賀城の城主であった大谷吉継に剣術を教えていたけれど、関ヶ原の戦いで吉継が亡くなると浪人となり、下総(現在の千葉県)で余生を過ごし、亡くなったという説があります。
鐘捲流剣術の創始者である鐘捲自斎(かねまきじざい)通宗を訪ね、その下で小太刀や中太刀などを学びました。一刀斎がとても良く学び稽古に励むので、舌を巻いた自斎は、一刀斎に自らの流儀の秘訣を教え、『妙剣』や『絶妙剣』などの5つの秘伝の刀を授けたのでした。
それ以外にも、『払捨剣』や鶴岡八幡宮に参った際に、無意識のうちに人を斬り、それがきっかけで生まれたという『夢想剣』などの剣術などを一刀斎に与えています。
その後の一刀斎は、様々な地域を廻って歩きますが、33回戦ったうちで、敗れたことはなかったのです。
ちなみに、『夢想剣心法書』というのがあります。その中で書かれている名前が『外田一刀斎』とありますが、この名は自斎のまたの名でもあるのです。そういったことから、自斎という人もその経歴などが定かではないので、一刀斎と生まれた土地などが混同している可能性もあります。
柳生氏の記録である『玉栄拾遺』によれば、一刀斎の師匠というのは『山崎盛玄』であるとしています。『山崎左近将監景成』という、「名人越後」と呼ばれた剣の達人がいました。彼が『山崎盛玄』なのだとも考えられます。
一刀斎の作りあげた『一刀流』という剣術は、江戸時代において栄えて広まりました。それでも、自分でその剣術を『一刀流』とは呼ばなかったのです。