柳生宗厳の名言です。

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戦国武将の名言

柳生宗厳は戦国時代の新陰流の剣法を継いだ兵法家です。
父は柳生家厳で大和の国は添上郡柳生郷の豪族でした。宗厳は新介という幼名で、新左衛門と呼ばれていました。
宗厳は香取新十郎に新当流の剣術を学び、宝蔵院胤栄には槍術をそれぞれに学びます。
多武峰(とうのみね・現在の奈良にある、とある山やその付近にある寺の事)にいた僧侶らとの戦に、宗厳は父と共に松永久秀の勢に加わり、名を上げました。その年には、上泉信綱という新陰流の兵法家と会ったことにより、信綱やその弟子とも試合をしますが、負けてしまいます。
宗厳は信綱の門下となり、1565年になると新陰流の免許皆伝となりました。さらに次の年には、奥義というものを授けられました。その後には、「無刀取り(自らは刀を持たずにして相手に勝つという戦法)」を編み出し、大名たちが教えを受けたと言います。筒井 順慶に仕えていましたが、後に織田信長に仕えました。
柳生村に帰る途中の道で、馬から落ちてしまい大けがをしてしまうという、惨事もありました。更に1571年には、宗厳の嫡男である厳勝が辰市合戦において、鉄砲の弾に当たってしまった事で重症を負い、剣が扱えない状態になってしまいました。
1573年以降になると、病気になったという理由で職を辞し、柳生村にて隠居生活を送りました。石舟斎と名乗り出家したのが1593年です。
松永久秀が信長に対して謀反を企てた折には、その影響を受けないために筒井 順慶にも属しませんでした。反対に、順慶と争っていた十市遠長の側に付くなど、独立の立場を取っていたと『多聞院日記』には記されています。
翌年に京都に徳川家康によって呼ばれ、五男である宗矩と共に無刀取りを披露しました。それを見た家康から、宗厳は剣術を教えるために勤めるように言われますが、既に高齢だったために断りました。その代わりに、宗厳の息子である宗矩が五百石で雇われたのでした。
家康に新陰流を教え、それからというもの、柳生家は徳川家に兵法を教えるという役割を担っていくのです。そして、剣において大きく有名な家系となりました。
1600に起きた関ヶ原の戦いでは、宗厳は家康に命じられて畿内の動向を調査し、家康に報告しました。
1606年には、柳生村の地において、八十年の人生に幕を下ろしたのです。宗矩はというと、段々と出世していき、将軍師範役兼大目付にまでなり、一万二千五百石を頂戴したのでした。

柳生宗厳の名言です。

うつすとも水は思はず、うつるとも月は思はず、さる沢の池。

吉川英治「われ以外みなわが師」

「誰が見ていようと 見ていまいと、映る月も 映す水も、何ら変わりなく 何らの意志も動いておらず、しかも、その あるがままな自然こそ、即、われわれの日常でなければいけない」

一文は無文の師、他流に勝つべきにあらず。きのふの我に今日は勝つべし

自分の心と向き合い、昨日の自分に勝てるように日々向上する大切さを説いています。
戦国武将の名言集に戻ります。 

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