榊原康政は、1548年に三河上野で生まれました。三河の譜代家臣で十三歳から家康に仕えます。徳川四天王の一人です。
桶狭間の合戦後、松平元康(徳川家康)に初めて謁見しました。三河一向一揆勢時に自ら先手に加わったのが初陣です。
これに勝利し徳川家康の一字「康」を賜って「康政」と名乗りました。以来、大将として軍団を指揮する任につきます。掛川城攻めの時は海から上陸し、徳川家康本隊の背後から攻めようとする敵を破りました。
姉川の合戦では朝倉勢に側面攻撃をかけ、劣勢にあった織田・徳川連合軍を勝利に導いて織田信長より褒め言葉を賜っています。
三方ヶ原では先鋒を務め、本能寺の変での伊賀越えに加わるなど、前線での働きが目立ちました。
小牧・長久手合戦では先陣として尾張入りすると秀吉に対して「秀吉は信長公の家臣にも関わらず信長公亡き後は織田家を蔑ろにし、織田家を滅ぼそうと信孝様を殺し、今は信雄様を討とうとしている。こんな不忠者に神はきっと天罰を与えるだろう」
と、秀吉を批難する檄文を書いて秀吉を激怒させました。
そして康政の首に十万石かけられたにもかかわらず、舅大須賀康高とともに長久手で三好秀次隊を壊滅。その後、堀秀政隊に敗れますが無事生還しています。
小田原征伐では伊豆・山中城を攻め落とし、平定に貢献しました。
家康が関東に転封されたときに、上野館林城十万石を与えられると徳川秀忠を支え、秀忠の家督相続の実現に尽力します。
関ヶ原の合戦で康政は秀忠と中山道を進みました。家康は秀忠に対し「軍事は全て康政に相談せよ」と命じています。
秀忠が率いる軍が関ケ原の戦いに遅参し、三十万の兵を無駄にした秀忠に家康は激高して面会を許しませんでした。父子の仲たがいは家の存続問題と考えた康政は、家康に面会してその気持ちをなだめたという説があります。
康政の忠心を解した秀忠は、「徳川家が続く限り榊原家を取り潰すことはない」との誓書を与えました。
関ヶ原の戦いの後、館林にこもり隠居同然の生活をおくります。死ぬまで老中にあったものの、決して政治に口をだすことはありませんでした。『老臣、権を争うのは亡国の非なり』という康政の性格が伝わってきます。1606年直腸癌により五十九歳で世を去りました。