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毛利秀元

元就の四男、穂井田元清の子です。毛利家本家を継いだ輝元には長く実子が無く、秀元を養子にします。小さい頃から武将としての資質に優れ、秀吉からの寵愛されたため、秀吉の「秀」を与えられ秀元と名乗りました。
伯父の小早川隆景は秀元を器量に優れ、父元就に一番よく似ていると評価しています。
秀吉は病を患った養父の輝元にかわりに、十五歳で初陣の秀元を「総大将」に大抜擢します。小早川隆景の助言があったかもしれませんが、秀元は諸将に的確な指示を与え、全軍を見事に統率します。秀吉の期待に応えた活躍をみせました。その功績で、秀吉の養女を正室に迎えることになります。
叔父の小早川隆景と秀元の毛利家を存続させるための考え方は似ていて、輝元に実子の毛利秀就が生まれると、秀元は毛利家本家の家督相続から身を引きます。隆景は毛利家を支える自分の思いと秀元が一緒だったことに喜びました。
秀元に期待をしていた隆景は、自らの経験・知識等をできるだけ秀元に伝えていたようです。
戦場では窮地に立たされた仲間がいると、すぐに救援に駆けつけるような剛勇の将で智略にも優れていました。腕力も強く家臣との力比べの際には、体の大きな家臣を将棋盤に上に立たせると、将棋盤を持ち上げ、座中を廻ったといいます。
関ケ原の戦いでは、秀元は二十二才ながら毛利軍一万二千の総大将として出陣しますが、輝元の従兄弟に当たる吉川広家が東軍とひそかに内通していました。秀元は戦うつもりでしたが、先陣の広家が動かかないため、傍観したまま敗戦を迎えます。
秀元は大阪城に帰った後も、立花宗茂と共に東軍と戦うことを訴えますが、聞き入れられませんでした。
戦後、輝元より長門国内に六万石を分知されて長府藩主となります。幼い毛利本家の秀就の後見人として幕府との繋がりを密接にしていきます。秀就と秀元の関係は不仲だったといわれていますが、本家を立てることを忘れなかったようです。徳川幕府から信頼を得るために徳川家康の養女を娶り、大阪の役にも参戦しました。
大阪夏の陣で先鋒を任された秀元は、活躍を大いに褒められたといいます。幕府への忠義を見せていました。古田織部の弟子となり文人としての才能も認められ、江戸幕府三代将軍の家光の要望により茶会を開いて親交を深めます。晩年は江戸で暮らし、家光の御伽衆となりました。享年七十二歳。

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