小早川隆景

毛利元就の三男で、竹原小早川家に養子に出されると、元就の謀略で本家の沼田小早川家を継ぎます。同じく元就の次男である吉川元春と合わせて毛利両川の一人として、元春と共に毛利家を支えます。
隆景は主に山陰方面の統治で、政務・外交を担当。毛利水軍の指揮官としても活躍。毛利家の中国地方の統一に大きく関与して元就を支えていましたが、元就が亡くなると、跡をついだ甥の輝元を補佐するようになりました。
隆景が四十歳を超えたあたりから織田家と敵対し、中国攻めを任された秀吉と戦いますが、信長の死後、秀吉が後継者として台頭してくると積極的に協力ます。秀吉の天下統一に多くの功績を残しました。
秀吉から「日の本は、西方は小早川隆景に、東方は徳川家康に任せれば安泰」といわれるほど外交や政治に長け、その手腕は非常に高く豊臣政権の五大老の一人に取りたてられています。とても思慮深く、黒田官兵衛とともに戦国時代きっての智将で、人徳が備わっていた人物でした。
また、秀吉から毛利本家の跡継ぎとして、羽柴秀俊(後の小早川秀秋)を養子に入れられそうになります。自らを犠牲にしても毛利宗家を守ることに専念した隆景は小早川家の養子に貰い受けたいと申し出ました。このことが秀吉に認められ、毛利家乗っ取りを回避します。秀秋に跡をつがせると隆景は隠居。享年六五歳でした。
秀吉に天下を取らせた黒田官兵衛と仲がよく、お互い認め合い弱点も知り尽くしていました。官兵衛は、隆景が病死したと聞いた時、『これで日本に賢人はいなくなった』と嘆いたと言います。

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