毛利元就の次男。毛利両川の猛将で通称「鬼吉川」。弟の小早川隆景と共に毛利家を支えた名将です。
元春は吉川興経の養子となり、毛利元就の策略により吉川家の当主になります。十二歳の初陣以来つねに毛利家のために戦い、数多の合戦で先鋒を務めます。厳島合戦をはじめとして主に山陰地方の司令官として政治・軍事面で活躍しました。
生涯で七十六回の合戦に臨み、六十四回の勝利を収め、一度も敗れたことがなく、元就をして「我は戦では元春に及ばぬ」といわしめるほど武勇に秀でた武将でした。織田信長とも幾度か戦を交え、撃破しています。元就が亡くなると、毛利家のために孫の輝元を補佐して尼子氏を滅ぼす功績をあげました。連戦連勝の元春が決死の覚悟で挑んだ戦いが鳥取城の戦いです。
鳥取城主の山名豊国は秀吉軍の進軍の知らせを聞くと、早々と城を捨てて逃げてしまったため、山名氏の重臣たちは毛利軍の山陰方面を担当していた元春に救援を依頼します。元春は救援の求めに応じて吉川一族の吉川経家に臨時の城主として入城を命じます。吉川軍の主力部隊が到着するまで持ちこたえるという篭城作戦でした。
秀吉は鳥取城を取り囲むように厳重な包囲網を敷きます。そのため、救援物資は経家のもとには届きません。四ヶ月におよぶ籠城の末、城内の食糧が尽き凄惨な状況になると、自身の切腹と引き換えに城兵の助命を要請します。
秀吉は経家は殺さずに山名氏重臣らに責任を取らせようと考えていましたが、経家は臨時の城主といえども自分も責任をとるべきであると申し出て切腹します。
この報に激昂した元春は秀吉との決戦のため自ら出陣します。元春軍六千が背後に流れる川の橋を全て打ち壊し、船は陸に上げ、目的を果たすまで決して引くことはないという背水の陣で二万とされる秀吉軍に挑みます。
この大胆な行動に秀吉は死兵を相手にする事は得策では無いという判断からか、数日のにらみ合いの後、姫路へと帰還します。秀吉の家臣、宮部継潤は「吉川のある限り、毛利の武運は衰えまい」と述べたそうです。
秀吉と毛利家の戦いは続き、備中高松城の戦いでは秀吉が高松城を水攻めによって包囲します。毛利家の援軍は手が出せない状況の中、秀吉が和睦をもちかけます。高山城城主、清水宗治の切腹で城兵の命は助けるという条件でした。
毛利家と秀吉が和睦すると、その後に織田信長が死んだことを知り、元春はだまされたと激怒します。元春は秀吉の追撃を主張しますが、小早川隆景の説得で追撃は断念します。
その後、秀吉が天下人になると秀吉の命令に従うことを嫌い、家督を元長に譲ると隠居しました。のちに、隆景と輝元たっての懇請で九州征伐に出陣すると、病に倒れ小倉城で急死。陣中で親友の黒田官兵衛が差し入れた鮭を、持病に悪いことを知りながら、礼を欠くまいとしてそれを食べ、病を悪化させて亡くなったとも言われています。享年五十七歳でした。