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毛利隆元

「謀りこと多きは勝ち」を地でいく知謀策謀に長けた毛利元就の長男。十五歳にして大内家に人質に出され、その大内義隆のもとで元服。大内義隆の一字をもらい受け隆元と名乗ります。
隆元は義隆との交流により穏和で教養豊かな文治の将として高い知識を身につけていましたが、武将としての気概や機転に欠ける部分があったため、それを心配した元就や志道広良が隆元の訓育にあたり、再三にわたって訓戒されています。
元就から家督を譲られて毛利家当主となりますが、西に大内、東に尼子を控えていました。隆元に家督を譲った後も元就は毛利家の実権を握り続け政策に関して細かい指示を常に隆元に与えています。
元就には九男二女がいて、次男の吉川元春は剛毅果断の武士。三男の小早川隆景は豊臣秀吉に
「ワシ以外天下を統べる者がいるとすれば、それは隆景か兼続」
とまで言わせた知性派の武将で二人とも優秀な武将でした。
隆元は実直で信仰心厚く、父の長寿と健康をひたすら願う親孝行で温厚な人物だったようです。強力なリーダーシップを求められた戦国時代には少々頼りなく思われていたのかもしれません。元就の後継者であることが隆元の悩みであり、また戦いでした。
そんな隆元ですが、隆元は家中の引き締めや内政などを行い、戦争の資金調達や 兵士を集める役目などを務め、優れた内政手腕によって父や弟たちを陰ながら支え続けていましたが、隆元は出雲への陣中で急死してしまいます。享年四十一歳でした。
隆元の死後、諸将がその政務を引き継ぎましたが、隆元が行っていたときより上手く行かず、国人との紛争が頻発するようになり、毛利家の税収が二千貫も滞ってしまったといわれています。これまで隆元のおかげで毛利家は保たれていました。
元就は「隆元の存命中は世の中に恐れも少なかったものだ」と述べています。
陶晴賢が大内氏の実権を握った時、大内氏からの独立を主張して、陶打倒を主張したのは隆元でした。
厳島合戦に踏み切って毛利氏を戦国の大大名にした契機をつくっています。
隆元は決して凡将ではなく、武勇の元春、知略の隆景にひけを取らない、仁徳の隆元として良将であったと思われます。

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