上杉謙信 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句
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極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし

越後国の武将で、越後の虎とも越後の龍とも呼ばれた武将です。上杉謙信は私欲の少ない、清廉の人として知られています。戦国時代屈指の戦上手であり、野戦においては戦国武将の中でも最高の指揮統率力を持つ戦術家といわれています。そのあまりの強さゆえに北条氏康、武田信玄も野戦を避けて持久戦をとっていました。
軍事能力に卓越しており、生涯で約七十回もの合戦を行い、敗北は僅か数回と伝えられています。神がかり的な采配で直接の戦闘では圧倒的な強さを誇っていました。そのため「越後の龍」や「軍神」と評され恐れられています。
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謙信の生い立ち
上杉謙信は、1530年に春日山城で生まれました。幼名を虎千代といいます。
幼い頃に春日山城下にある林泉寺に預けられ、禅や仏の修行を続けながら僧侶として育つことになります。実兄にして越後守護代の長尾晴景は病弱で越後の内乱を鎮圧することができなかったため、兄の要請で謙信は栃尾城に入ります。当初、僧侶として育った謙信の実力を皆が疑っていましたが、いざ戦が始まると先頭に立ち、敵を打ち破って初陣から手柄をあげます。さらに勝ち戦を続け、反乱を鎮圧する戦いで大きな活躍を見せたため、兄が隠居すると春日山城城主・守護代に推薦されて「長尾家」の家督を相続します。
越後守護・上杉定実が没し、嗣子がないため越後守護の上杉家が断絶すると、将軍・足利義輝は、越後守護代である長尾景虎(上杉謙信)に越後守護の地位を認める書状を送りました。
越後国主の地位を認められると、内乱続きであった越後国でしたが、景虎は二十二歳の若さで越後統一を成し遂げます。
のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する関東管領に任命されました。
武田信玄との川中島の戦いや、北条氏康を攻め込む小田原城の戦い、織田信長との戦いなど、数々の戦いを繰り広げますが、遠征の準備中に春日山城で倒れます。死因は脳溢血との見方が有力視されています。謙信は無類の大酒飲みでした。
謙信は自らの利のために領土を拡大していません。武田信玄が死去すると、上杉家の家臣達は今が好機と知り出陣を謙信に進言しましたが「若い勝頼が継いだばかりに襲うのは大人気ない行為だ」と兵を出さず、長篠の戦で武田家が織田家から敗れると、再び家臣たちは出陣を進言しますが「人の落ち目を見て攻め取るのは不本意だ」と言って攻めることはありませんでした。
義理堅い武将としても有名で、北条氏康は謙信について「信玄、信長は表裏があり頼むに足りない。ただ謙信のみは請け負った以上は骨になるまで義理を違えない。謙信の肌着を分けて、若い武将の守り袋にさせたく思う。わしがもし明日死ねば、後を頼むのは謙信である」と評価しています。
また、武田信玄は死に臨んで跡継ぎの勝頼に「あのような勇猛な武将とことを構えてはならぬ。謙信は、頼むとさえいえば、必ず援助してくれる。断わるようなことは決してしない男だ。この信玄は、おとなげなくも、謙信に依託しなかったばかりに、一生、かれと戦うことになったが、甲斐国を保つには、謙信の力にすがるほかあるまい」と遺言しています。
戦国の世にあり謙信ほど義理、情に厚い武将は他にいません。慈悲深く義を貫いた名将でした。

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