真田信繁

長野県の豪族。信繁の祖父にあたる幸隆が小県郡の真田郷を領有したあとに真田氏を名乗りました。真田昌幸の次男。武田勝頼が亡くなるまで武田家の家臣として仕えます。織田信長によって武田家が滅ぼされると昌幸は信長に恭順。その所領を安堵されました。
織田信長が本能寺の変で自害すると、信長に従属していた昌幸は上杉景勝と同盟します。その際に信繁は人質として越後に赴きました。
そして一年もたたないうちに次は豊臣秀吉に臣従。昌幸は従属する相手を上手く切り替えて真田家を維持します。そのため信繁は上杉景勝から豊臣秀吉へ人質として出仕します。信繁は秀吉のもとにいた頃に大谷吉継の娘と結婚しました。娘の名前は竹林院という名で、信繁は五人の息子や娘を授けています。
秀吉がこの世を去ると石田三成が徳川家康に対して挙兵。真田家の存続のための会議が行われ、昌幸と信繁は西軍に、長男の信之は東軍に分かれました。
関ヶ原の戦いの最中において、昌幸と信繁は徳川秀忠の大軍を止めることに成功しましたが、関ヶ原の戦いは東軍の徳川方の圧勝で終わりました。
昌幸と信繁は、敗軍の将として切腹を命じられるところを、信之と本多忠勝の取り成しで紀伊国九度山に配流のみにとどまります。しかし、十五年にわたる長い罪人生活でした。その間に昌幸が病死。信繁も四八歳になってわが身の衰えをなげいていました。そんな信繁に一大転機が訪れます。徳川家と豊臣家の関係が悪化し合戦が決定的になると、大坂方が黄金二百枚、銀三十貫を用意して信繁に大坂城への入城を要請しました。信繁は住んでいた九度山から数千の軍隊を従えて豊臣家の本領である大坂城に駆けつけます。
信繁は劣勢で大勢を敗退させる独自の戦術を確立していて、大坂冬の陣で信繁は真田丸と呼ばれている出丸を築きます。信繁は戦術の上手さが際立つ武将でした。相手の出方を見てから仕掛けてくるタイミングを見計らって攻撃。相手を混乱させながら戦局を有利にしています。この真田丸の攻防で徳川軍に大きな損害を与えました。信繁に対して、家康の側近が破格の条件で寝返りを工作しますが、信繁は打診してきた交渉を断固として拒否します。
大阪城を強攻することの不利を悟った家康は豊臣方と和議を結びます。これに乗じて家康は大阪城の外堀を埋め、真田丸は解体されました。そして豊臣家が壊れた塀の修繕や、埋め立てた堀を掘り返していると報告を受けた家康は、豊臣秀頼の国替えか浪人の放逐を求めましたが、豊臣家は断固拒否します。
再び家康は大阪城を取り囲み、大坂夏の陣がはじまりました。
大坂夏の陣が始まると、信繁は残された人生のすべてをかけて家康の本陣に突撃します。二度目の突撃で、家康を守る旗本衆が総崩れになりました。信繁の勇敢な突撃は家康を倒す寸前まで食い込みます。家康はその攻撃のすさまじさに、三方ヶ原の戦い以来の自害を覚悟したと伝えられています。
しかし、三度目の突撃では徳川軍に押されるようになり、豊臣軍などの味方の武将の怪我などを介抱していた所を狙われて、討たれました。豊臣家の他の武将たちも壊滅。大坂夏の陣は徳川家の勝利で終わるとともに戦国時代も終わりを迎えました。


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