服部正成

服部正成は、代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部家の二代目です。忍者のイメージがありますが、本当に忍者だったのは初代の服部保長までといわれています。二代目の正成は「鬼半蔵」の異名を取り、槍の名手として知られています。初代 服部半蔵、保長の長男として生まれ、父のあとを継いで徳川家康に仕えます。遠江掛川城攻め・姉川の合戦・三方原の戦いなどに従軍して戦功をたてました。槍を贈られ、伊賀の衆、百五十人をその配下に置くことになります。
中でも有名なエピソードが「家康の伊賀越え」です。
本能寺の変のときに家康は、信長の招きを受けて安土城を訪問、堺の見物、茶会、など楽しんで京都へ戻る途中でした。このとき家康が連れていた家臣は軍勢もなく僅か三十数名の供回りだけでした。街道はすべて明智軍との遭遇の可能性があって、安全に帰国する当てがありません。家康の生涯で最大とも言える危機に直面しました。しかも酒井忠次、石川数正、本多忠勝、井伊直政、榊原康政、服部正成、高木広正、大久保忠隣、菅沼定政、高力清長、大久保忠佐、渡辺守綱など、徳川家の重鎮が揃っているため、襲撃されると徳川家にとって大きな痛手になります。家康は死を決意しますが、本多忠勝の反対で本国へ戻る決意を固めます。
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伊賀にゆかりがある半蔵は明智軍の追っ手と、地元の土豪たちの襲撃に会わないように、甲賀・伊賀国境の多羅尾峠を越えて伊賀地に入り、忍者たちの救援を得て岡崎に帰るという策を家康に進言します。家康の了解を得ると、半蔵は一行に先んじて伊賀入りして、甲賀・伊賀の忍者三百名余りを召集し、伊勢まで家康の一行を警護します。白子(鈴鹿市)の港から船で伊勢湾を渡り、無事に家康を岡崎城に帰すことができました。
伊賀越えの功で半蔵は八千石をあたえられ、与力三十騎・伊賀同心二百人の支配を許されます。
半蔵は武将でしたが、徳川家に召し抱えられた伊賀忍者を統率する立場になっていきました。1596年に五十四歳で死去。
現在東京にある「半蔵門」は、服部半蔵の屋敷が門前にあったことからその名がついたといわれています。半蔵門から始まる甲州街道は甲府へと続いています。服部家の家臣の屋敷は甲州街道沿いに配置されていました。
江戸時代の甲府藩は親藩や譜代が代々務めています。甲州街道は江戸城に直結している唯一の街道で、徳川将軍家に万が一非常事態が起こった場合には江戸を脱出するための要路として指定されていました。後に、服部家が改易されたあとは、伊賀同心は江戸城内を警護し、甲賀同心は江戸城外の門を警護します。このことから、徳川将軍家の警護を代々務めていたことがわかります。

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